History of SEAL
海軍特殊部隊SEALの歴史
Up to Vietnam


合衆国海軍海洋作戦援護部隊郡所属 “SEAL”

●時代背景と創設●

1945年以降、米・ソ(現ロシア)二国は長きに渡った世界大戦後の世界を
リードする超大国としての地位を固める為、米・ソ二国のお互いが、他国に対し
様々な援助活動を行い、各国の掌握に全力を注いだ。

1950年代に入り支援を行ってきた各国で、共産圏諸国の支援する反政府
ゲリラが組織され活動を開始、アメリカ合衆国とその同盟国は、正規軍相手の
対応とは違う予想外の敵に悩まされる時代となった。

1960年代に入り、各国の活動に呼応するかの如く、中南米、アフリカ、
そしてアジア等の開発途上にある国々で、これまでに無く多くの独立国家が
誕生。それに伴い、様々な国で共産圏諸国により支援された民族解放ゲリラが
組織され、革命の名の元の無差別なテロ行為が繰り返された。

「テロの時代」と言われる、新たなる世界大戦の始まりである・・・

アメリカ合衆国は米・ソ大国の新たな冷戦構想と、一般部隊では対応が難しい
「対テロ」「対ゲリラ」の特殊戦争に対応した新しい形の軍隊として、「特殊部隊」の
創設が必要と判断、時の合衆国大統領のJ.F.ケネディ大統領によって創設が
下令された。

1962年1月1日 

アメリカ合衆国海軍は、朝鮮戦争で活躍したUDT(Underwater Demolition Team)の
内、TEAM−11・12・21内の隊員から選抜し、非正規戦戦闘部隊を創設した。



SEAL(Sea Air and Lands)
「地球上で存在する全ての戦場になる陸・海・空の三大領域を制する者」の意味を
短縮させた語と、外見とは裏腹に海の中では素早く獰猛とされる「海豹(アザラシ)」
をかけた部隊名である。

創設されたSEAL1・2の2つのチームは、それぞれ太平洋側を活動担当する
SEAL−1(カリフォルニア州・コロナド基地)と、大西洋側を活動担当をする
SEAL−2(バージニア州・リトルクリーク基地)とに分けられた。

1966年
正式にベトナムの地を踏んだのはSEAL−1のA/Bの2チームであった。
彼らは、初期の作戦行動と南ベトナム海軍・特殊部隊であるL.D.N.N.
(Lien Doc Nguoi Nhia)の訓練・教育を遂行した。

その後SEAL小隊は増強され、1966年後半には各地に派遣されていた
全小隊がベトナムに集結されることになり、翌年の1967年には大西洋
援護軍のSEAL−2もベトナムに派遣されている。
(1年後に派遣された事もあり、SEAL1がベトナムで培った
ノウハウを元に、訓練を重ねたSEAL2は更に精強だったらしく、
様々な逸話が残されている。)

UDTより柔軟性のある部隊としてベトナムに乗り込んだSEALは、ベトナム
第4軍管区「メコンデルタ」地帯に配備され、SEAL−1は「NHA BE」に、
SEAL−2は「BINH THUY」にそれぞれHQ(HeadQuarters・本部)を置いた。

B.W.N.(Brown Water Navy・海軍河川部隊)や第四軍管区担当の陸軍
「第9歩兵師団」と連携しつつ敵地内陸部奥深くに潜入し、VC(Vietcong・
vietnamese communist・ベトナムの共産主義者)拠点の爆破・偵察・奇襲・
要人誘拐の任務を遂行した。


●作 戦●

SEALが行った作戦で、公表されて判っている幾つかの作戦は以下の通り。

★1966年・12月★
「チャールズタウン作戦」では、サイゴン南部ランサット特別地区・全域の
井戸の場所が書かれた文章を奪取し全ての井戸を爆破し、VC達にとって
貴重な淡水の供給を断った。

★1967年・9月〜12月★
「クリムゾン・タイド作戦」でSEALはVCの拠点と要塞153ヶ所、
ボート120席、塹壕75ヶ所を爆破・粉砕する戦果をあげている。

★1968年・3月★
「ボールドドラゴン作戦V」で、VCの秘密武器工場とトーチカの破壊は
有名過ぎる話である。

★1972年・4月★
映画でも有名な「BAT−21」もSOGに派遣されていたSEAL−2の部隊が
遂行した救出作戦である。DMZ(DeMilitariZed zone・非武装地帯)付近でNVA
(North Vietnamese Army・北ベトナム正規軍)のSAM(Short distance Antiaircraft
Missile・短距離ミサイル)により撃墜された空軍のFAC(Forward Air Controller・
操縦者)を3日間の期間を要して救出した。
この作戦を指揮したトーマス・ノリス大尉は名誉ある救出の功績により、メダル・オブ・
オナー(アメリカ軍最高位の勲章である、議会名誉勲章)を授与されている。
余談だが、この作戦に参加した南ベトナム海軍のNguyen・Van・Kietも、
ベトナム軍人では初めて米海軍より、海軍勲章の最高位に当たる
ネイビークロス(海軍十字勲章)を授与されている。

その他、SEALはベトナム戦争中に様々な任務に従事・遂行している。
「シーロード作戦」「リバー・レイダー作戦」「ゲーム・ウォーデン作戦」等にも
参加しているが、これ以外の活動については公にされていない。
未だ、軍事機密なのである・・・。

これも公にされていないが、SEALも陸軍SF(Special Forces・特殊部隊 )が
実施した「ソンタイ捕虜救出作戦」とよく似た救出作戦を行っている。
その作戦こそが唯一捕虜救出に成功した例であった。


●豆知識●

SEALの作戦は、小隊長が全て立案、計画、手配を行い、1名の将校と
兵・下士官が6名の計7名で1分隊(SQD)、2名の将校と兵・下士官が
12名の計14名で一つの小隊(DET)とされた。
しかし、実際の作戦では7名以上が出撃する事は非常に稀で、
分隊単位以下の人数で作戦を実施した。

SEALは「沈黙と信頼」(サイレンス・アンド・リライアンス)を実施した事でも
有名である。音を立ててTEAMの位置を暴く可能性を最小限に抑える為に、任務に
出ると任務完了まで隊員同士、他の米部隊とは無線も含めて一切の会話を封じた。
「自分がしようとする事を仲間に告げなくても仲間がカンで判ると信じていた。」
余程に隊員同士が信頼を置かないと出来ない事である。

SEALとUDTはその卓越した敢闘精神で、1966年から1972年のベトナム派遣
期間中にメダル・オブ・オナー3個(ST‐1×2個・ST‐2×1個)を授与されている。
海軍勲章の最高位に当たるネイビー・クロスにおいては7個(ST‐1×3個・ST‐2×2個
・UDT‐12×2個)を授与されている。

また公表されているベトナム派遣期間の1966年〜1972年の間に、SEALは45名、
UDTは4名の戦死者を出している。

米軍側戦死者6万人弱に対し、僅か6年間のベトナム従軍とは言えSEAL・UDTの
戦死者数がこれだけなのは、「沈黙と信頼」の結果による表れなのかも知れない・・・。


SEALに関わる裏?


SEAL創設後、存在と活動が秘密裏にされていた当時、偶然あるマスコミの前に見た
事も無い銃器を手にした顔中緑色の集団がヘリから降り立った。その部隊こそが始めて
マスコミに取り上げられる事になったSEALで有り、謎の隠密部隊として騒がれて
世間に周知される事となったらしい。


聞くところによるとSEAL発足当初、活動場が水中だけのUDTから人材を募った為に、
ランドナビゲーション(地図上における現地点の把握)が不得意で作戦に出ても地図を
読み間違える事が有ったらしい。
短期間の作戦が多かったとは言え、少人数の部隊なので不味いと感じたSEAL隊員は、
陸軍から隊員を派遣して貰い訓練を積んだそうだ。


名誉挽回までに書くと、母体となったUDTは物凄く体力が有ったらしく、陸軍との合同
訓練時においては、ランニングでは陸軍の教官をからかいながら楽々と追い抜き、懲罰で
一人の隊員が腕立て伏せを命じられると、教官が止めるのも聞かずに部隊員全員で
腕立て伏せを行ったそうだ。


顔面のカモフラージュの為、フェイスペイント(顔料)で迷彩を施して作戦に従事
していたので、「緑の顔をした悪魔」とVCに恐れられたSEAL。
SEALは要人の暗殺を実行した時、我々の仕事の証明と言わんばかりに、殺した
標的の顔に横線の緑のフェイスペイントを塗り付けたらしい。


SEALによって初めてベトナムへ実戦投入・運用され有名になった支援火器
「ストーナー・Mk23 mod.O」。
元々はベトナムの様な高湿度・雑多な環境に対応して作られた物では無いので、
作戦中正常に作動をさせるのが難しく、軍上層部からは運用反対意見が相次いだ。
そんなストーナーの「軽量」「多弾数」「高連射」こそがSEALの必要とする、
火力を前面に押し出した作戦に不可欠と判断し、様々なトラブルが起こるモノの、
苦労の甲斐有って克服・運用し続ける事に成功した。
ストーナーがベトナムに於いて有効と知れ渡ると、掌を返したかのように
他部隊(特にオーストラリア軍)から導入の声が相次いだ。
実際導入される事は無かった様だが、例外的に同じ第四軍管区担当の陸軍
「第9歩兵師団」の手には共同作戦が有ってなのか?渡った様である。
有る作戦においてSEALがVCの集落を襲撃、大量の鹵獲兵器の奪取に成功した。
その押収品の中にストーナーが有ったのにはSEAL隊員も驚いたとの事だ。
何故敵の手にストーナーが渡っていたのか?が正確には不明だが、恐らくSEAL
以外で唯一の供給者である「第9歩兵師団」から鹵獲されたのでは無いか?と
言われている。敵側において確認された、最初で最後のストーナーだが、回収
任務が目的では無かった為、現地にて他の鹵獲兵器と共に焼き払われたらしい。